2005-03-25
愛・蔵太氏の発信したエントリ、及びその下にあるコメント欄にて、署名記事に関する話題があったので、そこからヒントを得て「署名記事」という観点から「朝日・NHK報道問題」に関して考えてみる。
署名入りの記事、というのは文責(書いた文章についての責任)のような意味合いでいいんだろうか。記事に署名を入れることで「この文章は署名した人が担当したよ」ということを明確にする。(だからといって無署名記事が「責任を放棄した記事」という意味合いではない。実質、記事を書いた報道機関・言論機関が責任を持つものだと思うので。)
例えば、署名記事を「一つの責任の持ち方」と考える方 ↓
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匿名という暴力(理系白書ブログ:元村有希子氏)新聞記事は、これまで多くが匿名だったけれど、毎日新聞に続いて朝日新聞も署名記事が増えている。署名記事は、記者としての一つの責任の持ち方だと思う。
→ 署名記事によって、記者としての一つの責任の持ち方となるという主張。(上記エントリ内に「匿名は安全なぶん、時々、無責任になる。」という主張があるが、まあ、それはそれで別の話と思ってください。敢えて個人的主張をするなら、「匿名」自身を否定はしない。ただ、「匿名を利用した無根拠な暴論」には賛同しない、ということでなにとぞひとつ。)
署名記事に「やや後ろめたさを感じる」という人の意見 ↓
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【雑事】署名記事(The Correspondents)むしろ、私は署名記事に後ろめたさを感じます。というのは、一本の短い記事を書くのにだって、実際問題、多くの記者が関わっていることが多いからです。
何か事件があった時、「おい、お前は一番若いんだから、◎×の家の前で死ぬまで張ってろ。もし帰ってきたら、何でも良いから口を利かせるんだ。絶対、寝るなよ」「△■君、君はあそこに仲の良い弁護士いたよね。ちょっともう1回当たってくれるかい?」なんてね。こうやって出来上がった記事の方がずっと信頼性があると思いませんか。1人の仕事と、20人が必死でやり遂げた仕事とを比べて。そして、こういう記事に署名なんて付けられないですよね。行数がもったいないですから。でも、信頼性が大事だとするなら、本当は出来る限りの記者を一つのケースにかけるのが本来の姿勢ではないかと。
→ 多くの記者が関わっていることが多いからこそ、「一人だけの署名を連ねた記事」というのは後ろめたさを感じる、ということだろうか。(代表者名のみの記事や、取材班名での署名記事という形など、最近はいろんな形の署名が提供されているが、上記エントリは、その話題とは別の観点で語られている、と個人的に解釈した。)
おそらく、報道内容に限らず、商品なんてのはスタイルは本質ではないと思います。スタイルだけが本質の商品があることも理解しますが、まあ本来的には品質が根本ですよね。品質を守るための署名記事、という話なら分かりますが、逆は幻想だし、疑わしい論理だと思います。
→ 「本来的には品質が根本」というのは確かにそうだな、と。署名記事だろうが否だろうが、求められて当然のことだろうと。
無署名記事に対して批判的な方 ↓
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無署名記事が無責任な記事を生む土壌に(川村渇真の知性の泉:川村渇真氏) →
「無断転載を禁ずる」ということなので、直接リンク先に飛んでください。おおまかな内容としては、無署名記事だと記者個人の責任が明確でなく、競争による記者の淘汰が起きにくい。ゆえに結果として、業界全体としての記事レベル評価に関わる。しかし、記事のレベルで署名記事を活用することにより、責任が明確化され、記事の内容が改善され、結果として記者の質が向上し、業界としてのレベルも向上する、という主張かと。
まあ、ここまで様々な意見を取り上げてみたが、署名記事に関して様々な考え方がある。上記の方々が述べられているのは「署名記事」を起点にした「記者としての責任の所在」の話だ。
で、私が感じるのは「署名記事だろうがそうでなかろうが、批判的な意見を受ける記事に対して、報道機関と記者らは真摯に向き合ってきたのか」ということだ。「本来的には品質が根本」という主張があったが、全ての記事が捏造とか、恣意的だとは言わない。しかし、例えば「朝日・NHK報道問題」に関して発端となった記事は、「本田和雅・高田誠」両氏の署名記事だったはずだ。

しかし、その署名記事を書いた2人は何ら説明責任を負わず、責任者である朝日新聞社も真摯な回答をしていないことに対して「違和感を感じる」という類の主張は、同じメディア業界を巻き込んだ事象として、私は見たことがない。
署名記事を「一つの責任の持ち方」だと主張される方は、
署名記事に対する「責任放棄」を行うこの2人の記者のふるまいをどう考えるのだろうか。また、
その署名記事であろうがなかろうが、最終的な責任所在を持つ朝日新聞社の「責任放棄」のような姿勢を、どのように捉えるのだろうか。言葉を返せば、一方の当事者であるNHKも、朝日新聞によるメディアとしての責任放棄に対して、自民党が朝日新聞に対して「説明責任」を求められている現状を憂い、
メディアとしての真実の追究を、当事者であるが故に下手に動けないとしても、可能な限り明らかにし、2人の記者が行った「責任放棄」の現状を打開し、最終的に「ひとつのメディアでありながらも、団体・法人の立場」として問題解決をする姿勢を見せ、
報道の独立性に寄与するべきではないか。他の読売、毎日、産経・・・などのメディアもそうだ。社説などの主張ではない、記者として、業界の一員として、いや「情報という商品を扱う企業」として、
メディア業界の一員による「責任の放棄」、そして「報道機関よりも、国会議員など立法府の人間が問題解決に積極的」な現状を、本気で危惧すべきではないのか。これは、
署名記事、非署名記事の有無に関わらず、それ以前の問題として「報道機関・記者としての記事に対する責任所在」と「報道の独立性」を確立するために、業界自身が真摯にこれらの問題を改善事項として取り組むべき問題だと、私は思うのだが。そういう意味で、愛・蔵太氏が提起した3つの疑問項目 ↓
1・ネット上の記事テキストは「過去ログ」として、他からの言及(リンク)に耐える形で半永久保存しておく。
2・ネット上の記事テキストで語られているものについて、「公式」にネットで公開されているもの(元データ)は、記事中に元データへのリンクを貼っておく。
3・記事を書いた人間の記者名を明記する。
に加えて、その前提条件として私もこのように考える、ということを主張しておく。
[追加]
愛・蔵太氏のエントリを受けて触発された方々のコメントも参照してみると面白いかも。
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マスコミがインターネット・ブログ文化に対抗する4つ目の方法(Irregular Expression:gori氏) → 記事にコメント欄などのブログのようなスタイルがつけば面白いんじゃないの、と言いつつ
「記事内容としては起こった事や発言をそのまま掲載」という大原則は忘れていない。やはり、これだけは譲れない重要な点でしょうね。
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情報拡張法(制心権)(誰が監視者を監視するのだろうか?:飛鳥氏) → 「
情報を与えないことは、もちろん検閲のひとつの形である。何も知らない一般国民は、自由に不正を批判したり非難したりすることができない。〜ジョン・モーティマー〜(表現の自由と検閲を知るための事典)」ふ、深い言葉だ・・・
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ブログの現状をマジメに考えてみた(音楽道茶室:J2氏) → 「これって結局『対抗』するんじゃなくって既存マスコミのサイトが『ブログ化』するってことじゃないかな」「つまりサイト全体がブログ化している。この流れがニュースサイト全体の主流になれば素晴らしいと思う。」とのこと。gori氏の主張と同じ論調かと。
個人的にblogスタイルの利点はやはり、いい記事は評価され、疑問視される記事は批判という形で、また記事自体に関連した話題がトラックバックされて補強されるという、いわゆる読者の声が間接的でなく、直接伝わるという点に変化するのがいい点なのだろうと考えます。問題は、膨大なコメント及びトラックバックが存在する場合、読者がいかにその情報を峻別できるか、という技術(知識)が求められるだろうなと思います。
[修正3/26:一部、言葉を補強しました。]
Comment
どんなに公平で客観的であろうとしても人は自分の想像を超える意見に組する事はできないわけで。そういう意味で、署名記事にうしろめたさを感じるという価値観が存在する事自体が驚きで、(しかも言われてみれば納得できる)今後の価値観の創造にも影響を与える事と思います。いや、勉強させていただきました。
同時に、署名記事の有無に関わらず、本当は「記事の信憑性に関しての責任者は記者であるが、同時に、記者署名を明記する・しないに関わらず、最終的責任は企業である」べきだと思いました。
本来、ある社員(会社の部署)が起こした不祥事やミスによる事件・事故は、まず社員(もしくは部署)の責任でもありますが、だからといって「企業側(主として経営陣、会社全体を含めたりもする)に責任はない」という理論を、マスコミ側はしていない訳ですから。
それを、マスコミ側は自分の側に向けていないのが現実なわけで・・・と考えています。